略歴


Wohnhaus in Neuseeland 2003

数年にわたりフランス、ニュージーランド、イタリアに居を構えるオーストリア出身の画家、Artberg彼の履歴はとても一言では言い表すことは出来ない。十代のころはストリートミュージシャンや、街頭絵描きとして駅や公園のベンチをねぐらとして、フランスへ無賃旅行を何度もしている。Artbergはさまざまな学校に通ったが、その時間はだんだん短くなり、最終的に建築専門学校のHTLでは午前2時間のみ、授業に出席しただけだった。ウィーン芸術アカデミーで、絵画を専攻することを決定する前に、建築モデルの製作や、のちには新薬のモニターなどで、何とか食い繋いできたのである。在学中も彼は奇抜な実験を試みている。ドナウ河のほとりのハインブルグの近くの地下に掘った穴の中で、つのりゆく恐怖状態のなかでの、体験の相対性を研究するために、数ヶ月間暮らしたのである。消費社会や、使い捨て文化に抗議するため、チロルからウィーンまでゴミの筏(Müll-Floßでくだり、ウィーンセッションの、もっとも有名なオーストリアの展覧会会場でペインティングマシーン(Malmaschine のようなオブジェや機械を作った。 また完全によく動かすことが出来る、トラックの大きさのマニプレーションマシーン(Manipulationsmaschineを作ったり、アルタナティーブの生活空間として住んでみる雲(Wohnwolkeを製作したりした。Artbergはたとえばファンタジック・アドヴェンチャー(Fantasische Abenteuerのような、ウイットに富んだ活動を始めた。彼は「Artbergによると他の人々のように」ハングライダーを持って、夏に南へ向かったり、また作品「天使と悪魔と僕と」(途中悪魔像の首がもげてしまったが)と共にトレーラー付き小型バイクに乗ってオーストリアからブレーメンまで行ったりしたのである。1985年から  1994年の間は「死にゆく」絵画にもっぱら専念するため、おもにノルマンディーで隠棲生活をしていた。1994 年から 1999年は、ながいあいだニュージーランドで過ごし、自身のカタマランで漕ぎ渡った無人島海岸近くの原生林の中で暮らしたりもしている。流れ木や折れた枝を使って「アトリエ」を作り、魚を釣ったり、島に立ち寄った漁師から、食料をわけてもらったりして生活の糧を得ていた。1999年以降リグリア山中に住むことが多くなり、そこで絵画制作やヴィジュアル・ポエジー(Visuelle Poesieのプロジェクトを実現させたりもした。Artbergはそこで、流行や前衛トレンドの方向には向かわず、支配的な美術館や、ギャラリーの命令には心を動かされない、個性的な、そしてわくわくさせる作品を創造したのである。 1996年にArtberg「オーストリア現代アート」記念切手シリーズ22番目の芸術家として迎えられたのである。


R:ARTBERG 2007